ブラジル移民

ブラジル移民は、1908年4月28日に笠戸丸という船の出航で全てがはじまりました。

当時は、日露戦争が起きて間もない頃でしたので、日本の農村は、非常に貧しい生活を強いられていました。%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%ABAffiche_%C3%A9migration_JP_au_BR-d%C3%A9b._XXe_s

 

そこで、当時の旅行会社がブラジルには「豊かな大地がある。」「お金はいくらでも稼げる」等といった広告をだし、移民希望者を募った。「希望者は家族単位でなければならない」という事もあり、少々苦戦したが半年で781人もの希望者が募った。

 

早速出発!!

日本からブラジル。今なら飛行機でも1日くらいかかる長旅です。

シンガポールや南アフリカを経由して2ヶ月間の長旅を終えた日本人達に待っていたのは、

「絶望。」

当時の旅行会社が出した広告は、大変な誇大広告であり、

豊かな大地と言われて連れてこられたのは、大量の荒れ地。

そんな荒れ地では稼ぐこともできず、日本にいたとき以上に貧困がつづいた。

当時は、奴隷制度が廃止され日本人の他にイタリア人などの外国人の移民を受け付けていた。

奴隷制度は、廃止されたが農家の奴隷気質は変わっておらず、ほぼ奴隷に近い扱いを受けていた。そのため、最初の笠戸丸で入国した781人の日本人は、翌年の外務省の調査によると、既に4分の3が入国当初に契約した農園から退いていた。

その4分の3は、日本に帰ったものもいれば闘志を燃やし、自分で農園を始めたものもいた。

その後はというと、日本人達が手をくみ、資金をだしあい、共同で農業を行っていくことで現地の人々と変わらない暮らしができるようになっていった。

当時は、コーヒー農園が主流だったが日系人達の手によって品種改良をした野菜の栽培が大成功を収め、野菜農園も多く広まった。

それ以降も移民は増え続け、さらに日本人の子供や孫も生まれ、日系2世や3世もでてきて2世や3世が日本に戻り「デカセーギ」(出稼ぎの事をブラジルでもこう呼ぶようになった)として日本の製造の現場をささえている。

私は、日系3世ですが、母方の祖父が熊本は八代市出身です。祖母がイタリア人です。父親の方が結構古くからブラジルにいる家系みたいです。いろいろな人種の特徴が混ざっていて見た目だけでは血筋はわかりません。

で、その息子の私はいわゆる雑種ですね・・・。

自分のルーツを探っていくと色々な歴史が分かったり、謎がさらに謎になったり・・・凄くおもしろいですね。

これからも自分のルーツを探っていきたいと思います。なんとか死ぬまでには全ての謎が解けたらなと、思います。

このブログ、本当にブラジルの事を言わないので、これからはブラジルをテーマに書いていきたいと思います。

今後ともご愛読の程、何卒宜しくお願い申し上げます。

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